LOGINどういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。
しかも、都合のよいことに、皇貴妃という身分でいられる。とても嬉しい。
中国の王宮の生活にもかなり慣れてきた。
私は貴婦人である。相手として対象になる男性がいるなら、それは皇帝だろう。
皇帝とは寝所で二人きりの時間を過ごした。
とても感慨深い、特別な時間だった。
皇后とは風呂でご一緒した。
さすがに皇后だけあって気品にあふれ、息を呑むほどに美しかった。私もそうありたいものだと思った。
何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。どんなささいなことでもしてくれる人たちだ。彼らを使うことに抵抗がなくなった。それだけ、信頼を置いていた。
王宮には複数の女官と召使がいた。
とくに夫似の召使が私の身の回りの世話をかいがいしくしてくれた。
髪の毛を櫛で丁寧に
つまり、私はとくに何もしなくてよいのだ。
はじめこそ、夫似の召使は私のために献身的に働いた。
自分で何もしなくても彼が率先し、代わりにやってくれた。きわめて楽ちんだった。
小石を敷き詰めた庭に出た。
園庭は美しく掃き清められ、枝ぶりがきれいに整えられ、見事だった。
池にはおおきな錦鯉が泳ぎ、亀もいた。
広い池にはサギが羽を休めていた。
西の方から太陽が差し、池に光が反射する。
サギの広げた羽に注ぐ陽光が、白い羽を明るく際立たせる。
せっかく中国王朝に来たのだから、皇帝にお目にかかりたい。
どんな人なのだろうか。
あれこれと想像した。
何もすることのない一日は、時間が長い。
現世で家事に追われ、時間がとれれば携帯を触っていた頃とは真逆の日常だ。無の世界。
皇帝の顔を見られたのは、昼過ぎだった。
「梅后貴妃。皇帝がお呼びになっております」
夫似の召使が床に片膝をつき、私を呼びに来た。
「わかった。参ろうか」
召使の案内で、広い屋敷を歩いた。
きらびやかな柱と、ところどころ中国風の絵が描かれた壁の部屋に来た。
私と召使は中に入った。
そこは、皇帝の寝所だった。天蓋付きのベッドが置かれている。その部屋は明らかに、私の部屋よりもグレードが上だった。
「皇帝陛下。梅后貴妃を連れて参りました」
「うむ、ご苦労。下がってよい」
白いカーテンの向こうに人影がいた。皇帝である。
「では、ごゆっくり」
召使は恭しく礼をし、部屋から出て行った。
「梅皇貴妃よ。こちらへ参れ」
「はい」
少し顎を引き、ベッドのそばまで来た。
「ここにかけよ」
答える代わりに、顎を引いた。皇帝のベッドに腰かけ、顔を見た。
比較的若くて整ったお顔の主君。それが皇帝陛下の第一印象だ。
皇帝は私の腕を引いた。
私は腰を上げ、ベッドの中に入った。以前から続けていたように、何のためらいも恥じらいもなく、皇帝と仲睦まじいときを過ごした。
私のパートナーは、やはり皇帝だった。皇貴妃と呼ばれる身分だから、当然と言ってしまえば当然である。
女として愛され、嬉しかった。
これこそが皇帝の寵愛なんだわ。感慨もひとしおだった。
王宮に暮らす女に生まれたのなら、やはり皇帝に愛されてこそ価値がある。
それが本当の貴婦人だ。
けだるい午後のひとときは、短い時間に細胞一つひとつを目覚めさせ、輝かせた。
久しぶりの快楽に心はときめき、体中の血管は軽快なテンポを刻んで勢いよく流れた。
熱い抱擁と濃密な大人の思い出を、けっして忘れないでおこうと思った。
皇帝の部屋を出て、召使を伴い、自室に戻った。
ベッドに腰かけた。
両手を頬にあてる。何もかもが夢見心地だ。
その日、再び、皇帝にお目にかかれたのは夕刻だった。
夕方に召使が来て、食堂に案内された。
やっと、おいしい食事にありつけた。
イスの背中に白い布がかけてある。
座って、その布を膝に置いた。
やがて、長いテーブルの前に数人が座り、食事が運ばれて来た。
皇帝は上座に座っていた。
エビチリは残念ながら並ばなかった。
代わりに、各席にフカヒレのスープと野菜炒め、辛そうな麺が置かれた。
テーブルの真ん中には、台の上に盛られた
他には赤や黄色、オレンジ色の果物であった。黄色は明らかにバナナだが、赤い果物は不明だった。橙色の果物は、みかんぽいものと、マンゴーのようなものに見えた。
「この焼いた肉はなんぞや」
私はだれに訊ねるでもなく、訊ねた。
「梅皇貴妃。それは鴨。鴨肉を焼いたものだ」
皇帝が笑って言った。
「さようですか」
場が静かなので、喋るのを慎んだ。
お腹は空いていた。ここに来て、まだ満足な食事をとっていない。ごくりと唾をのみ、どれから食べようかとワクワクした。
皇帝が手を合わせ、みなは食事を始めた。
空腹がひどくて、真っ先に中央の饅頭に手が伸びた。まずはこれを食べて空腹を満たしてから、次の食べ物にとりかかろう。そんな風に決めた。
白虎王子も饅頭に手が伸び、私と手がぶつかったのは愉快だった。
腹を満たして気付いた。扉が半分開いている。
そこから、琵琶と二胡、笛、
静かで、それでいてゆったりした雅楽。まさに心地よい音色で、食事のおいしさを引き立てる。
現世で食べたら、けっこうなお値段だろうな、と思いつつ、おいしい食べ物を咀嚼するのに夢中になった。
できる限り、皇貴妃としての気品と身だしなみに気を配ったうえで、ゆっくり、おいしい食事を味わうようにして食べた。
しかし、たまたま手元が狂った。箸で摘まんだ野菜炒めの汁が、着物にかかった。
「あっ、やっちゃった」
白い布で着物を拭いた。
すぐに気づいたのだろう。
壁際に立って控えていた召使がサササっと駆け寄った。
「拭かせていただきます」
男の召使は中腰になり、濡らしたお絞りで着物を濡らした汁を丁寧に拭き取った。
「く、口も」
私は炒め物を食べて汚れた唇をつんと突き出した。
それを見て、召使は別の色のお絞りで、唇を丁寧にぬぐった。
「子どもみたいだ」
白虎王子がこちらを見て、笑って指さした。
「まあ、よいではないか。白虎」
皇帝が息子である白虎王子をたしなめた。
私は、皇帝の目を盗み、白虎にあかんべぇをした。
白虎王子は気付いて、こちらを睨みつけた。
普通、あかんべぇなど、子どもがすることなのに、立場が反対である。
お腹も膨れ、心が満たされた。
気が緩み、瞼が重くなる。
「梅皇貴妃。スープは飲まぬのか」
皇后が私の方を手で示す。
そう言えば、スープの存在を忘れていた。
口が渇いたら、茶色の湯飲み茶碗に入った烏龍茶で湿らせていた。湯飲みの烏龍茶が減ると、召使がすぐにつぎ足してくれるのだ。
「忘れておりました。フカヒレのスープですね」
「さようじゃ。うまくて高級なスープ。とてもまろやかじゃぞ」
皇后はフカヒレのスープのうまさを確約した。
召使に目で合図し、フカヒレのスープを白い椀に盛ってもらった。
白い椀を手前に移動し、スープを見た。
かきたま風の黄色い卵のスープの中に、フカヒレが隠れているのだろう。
うーん、卵の優しい味わいとスープのうまみが絶妙だ。とても味が深い。深いという言葉では足りないくらい、奥深い。フカヒレも柔らかく煮込まれ、かきたま汁とほどよい味になっている。卵とフカヒレのいい部分が互いを引き立て、いい具合に調和している。
そして、皇后のおっしゃるように、スープ自体はあっさりしていて、まろやかだ。
このスープに中国ウン千年の滋味が詰め込まれている。
気付いたら、匙は何度も容器と口を往復していた。
手が疲れるくらいに匙で何度もすくい、舌がフカヒレスープと同質のものに変わりそうだった。
とても、おいしかった。
冷めてもおいしい。絶品の料理とはそういうものなのだろう。
しばらくして、自分がスープを食べ終わるのを、みんなが待っているのに気付いた。
この晩餐の席についているすべての人の目が、この私のスープを食べる姿に注がれていた。
ようするに、私が食べ終わるのを、じっと待っていたらしい。それも礼儀なのだろうとは後になって思い当たった。
スープを食べ終わったのを見て、貴妃というべきだろうか、第三夫人らしき貴婦人が、そっと手を挙げた。それが合図で、召使が、おのおのの目の前に大きな白い鉢と陶器でできた大きめの白い匙を運んできた。
それはデザートの杏仁豆腐であった。
テーブルの真ん中には、果物が置いてある。
それに手を伸ばす人も、召使にとらせる人も、だれもいない。
おそらく、真ん中の果物は食べられるけれど、飾りとして手をつけないのだろう。果物の汁で手が汚れるのを嫌うのかもしれない。でも、召使が果物の皮をむいてくれさえすればいいものを、と思った。
みんなは、スープの後で出る杏仁豆腐のデザートをじっと待っていたのだ。
この辺の食事マナーは、日本の懐石料理の最後と似ていた。
それまでは、テーブルに載った料理の中から、好きなものを好きな順番でいただける。
最後だけはみんなが揃ってデザートを食べる。
それがこの国、中国王宮の習わし──。
そう肝に銘じ、杏仁豆腐を陶器の匙でそっと
杏仁豆腐は細長いひし形で、ぷるるんとした弾力があった。
掬うと、白い匙のくぼみに三つ、四つだけ収まった。匙の大きさと、切り分けた杏仁豆腐の形や大きさ。それらをちゃんと計算して作られているのだ。
それくらいの心配りをし、贅を尽くしてこその王宮料理だった。
杏仁豆腐はみずみずしく、ぷるぷる揺れながらも、唇を乗り越えて口の中に入った。口で噛めばすーっととろけるように口内でほぐれる。牛乳の乳臭さを、香料で消してある。
とても上品で、味わい深い。いくども、いくども、舌と歯でよく味わった。
柔らかい杏仁豆腐がホロホロとほどよく崩れ、薄めの甘みが口に広がるのが心地よい。
みんなを見た。
みんなも杏仁豆腐がおいしいと見え、実に幸せそうな顔をしている。
杏仁豆腐を食べ終えた。
白い布で口を軽く拭いた。
食事は終わった。
いつしか、音楽は演奏が止まっていた。
皇帝はみんなを見回した。
ゆっくり頷き、手を別の手の
果物が気になった私は、食堂を出る前に、夫似の召使を呼び寄せて訊ねた。
「テーブルにあった果物は、だれも手をつけなかったわね」
「さようでございます」
「私、あの橙色の果物、食べたいんだけれど」
「わかりました。私めが皮をむいてお部屋に持って参りますゆえ」
「そうか。そうしてくれると、うれしいのう」
やはり、訊いてみてよかった。
夕刻の空はまだ明るい。
私は腹を見たし、満足だった。
ゆっくり自分の部屋に戻った。
しばらくして、夫似の召使が、切り分けられたみかんとマンゴーを持って来た。それらは、金色の小ぶりの容器に盛りつけられ、金色の匙が添えられていた。
私は、みかんとマンゴーを交互に食べた。
やがて、その果肉よりも橙色の夕陽が空を染め、夜を迎えた。
殺された。だれも助けてくれなかった。そう思った。しかし、そんな風に思うのはまだ早かった。寸前で助かった。死ぬと思った刹那に、走馬灯が見えた。走馬灯は死ぬ間際で見るもの。その走馬灯の世界で、空から何かがこちらに向かって来る。鳥、か。いや、もっと大きい。馬?空から来たのは、天馬だ。天馬に乗った人。その人は、芙楽王だった。「芙楽様」女官ヒナとして、なぜ彼の名前を、姿を知っているのだろう。我ながら不思議だ。ちゃんとした理由などない。ただ、なんとなく、前世に深い縁があった、と頭で分かった。芙楽は透明な体で馬に乗っていた。クラゲのように透き通り、輪郭だけがはっきりしていた。馬にはペガサスのように大きな翼が生えていた。そんな風な天馬だ。天馬に乗って駆けてきて、芙楽は手に槍を持っている。芙楽の乗った天馬は、地上に舞い降りた。芙楽は馬上で槍を構え、私に向かって叫んだ。「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」その台詞も聞き覚えがあった。台詞が頭の中でガーンと響いた。女官ヒナとしての記憶に前世の梅妃の記憶がかぶさる。もう何が何だか分からない。でも、思った。もはや、最高の罰を受ける運命から逃れられない、と。私は芙楽を平気で裏切ったんだわ。あの戦いで、芙楽は賀の王宮に突入した。芙楽は吊り天井の罠にはまった。天井に付いた杭により、八つ裂きになって死んだ。梅妃としての私には、どうしようもなかった。その後で、馬奈を見捨てて賀に寝返った。それが死んだ芙楽にとって無念であり、「平気で裏切った」ことになるのね──。その台詞を聞き終わるや、槍の刃先が私の心臓めがけて刺そうとする。槍が心臓を突き刺した。郭貴妃の短刀はどこへ行ったのか。短刀は視界から消えた。郭貴妃の姿も見えない。短刀が体に入るよりもかなり前に、芙楽の持つ長い槍が私の体を貫いた。ああ、これでいいのね。平気で裏切った私。そんな女にふさわしい、最高の罰。女官ヒナとして、だれかを愛したことはなかった。しかし、女同士で醜いケンカをし、相手を殴りつけた。竜光皇子にも暴力をふるった。私は女官として、イケナイ女だ。この槍の一突きをもって、この世から消える。短い生涯を終えるのね。私の父。私の母。ごめんなさい。親不孝な娘で、
熱が下がり、どうにか女官の仕事に戻った。一般女官との対決に勝ち、私に敵意をむき出しにする女官はいなくなった。「ヒナ。李妃様がお呼びだ。鷺の間へ行け」私の部屋に召使が来て、そう声をかけた。午前中に詩吟の予定が入っていた。詩吟に出る李妃様を鷺の間へ案内したのは、二時間ほど前だった。「何かあったのかしら」私は首をひねった。詩吟の会はいつも二時間では終わらない。たいていお昼頃までかかるのは通例である。んだ。李妃の用事だと信じ、急ぎ足で廊下を歩いた。前から竜光皇子が一人で歩いて来た。私は頭を下げ、廊下の脇にどいた。竜光皇子は私の前を通り過ぎた。私は皇子の来た方向へ歩こうとした。まさにそのときだった。通り過ぎたはずの竜光皇子が引き返し、急に私の背後に回った。えっ!?私は狼狽した。この前、夜の庭でこの皇子は私を羽交い絞めにしたばかり──。あり得ぬことだが、その再現が行われた。竜光皇子は、またもや男の強い力でねじ伏せ、私を羽交い絞めにした。「やめてください!大声を出して、人を呼びますよ!」「フフフ。やれるものなら、やってみよ」彼は小声でうそぶいた。そして、不敵に笑った。そこへ、タタタタタと足音が聞こえた。廊下の前方からだれかが走り寄って来る。何と!相手は年を取った郭貴妃である。目を吊り上げ、こちらを睨んでいる。その手に短刀を握り締めている。両手を短刀に添え、胸の下で固定している。初老の郭貴妃は、廊下で羽交い絞めに遭っている私をめがけ、まっしぐらに走り寄る。「や、やめてー!」叫び声がかすれた。「ヒナ。いえ、梅妃の生まれ変わりめ。いざ、覚悟!」郭貴妃はたしかにそう叫んだ。郭貴妃が至近距離に近づき、目の前に短刀がキラリと光った瞬間だった。前世の記憶がワーッと見えない波になって押し寄せた。三皇子が乱立した経緯。王宮の人間関係が分断され、三つの勢力に分かれたこと、趙士良の仇討ちに遭い、前世の私が斬り殺されたこと。郭貴妃と対立し、恨みを持たれたこと。さまざまな因縁があった。だからこそ、郭貴妃親子は私を殺そうとしている。彼らは、私が因縁の梅妃の生まれ変わりだと見抜いていたのだ。まんまと郭貴妃親子の計略に引っかかった。また死ぬのか。諦めた。諦めて、目をつぶった。悲しくて、目に涙がたまった。い
女官がすっと腕を出した。反射的によけた。ふっと背後に人気を感じた。その気配は本物だった。私を後ろからがっちりと羽交い締めにした。前にいる女官と後ろの人間。二人だ。挟み撃ちに遭った。前の女官は紐のようなものを手にしていた。洗濯、あるいは裁縫の女官か。両手で紐を強くひき、水平にピンと張った紐が目の前にある。背筋がゾクゾクし、額に汗がにじんだ。女官は、いきなり私の首に紐を押し付けた。喉を圧迫され、私は喘いだ。ウッ、グ、グ。息が苦しい。女官の手をなんとか払おうとした。女官はなおも、ピンと張った紐を引いて、グイグイと喉を締め付ける。本当に苦しい。紐をどけようとするも、羽交い絞めで手が使えない。目をつぶった。これが女官のすることか。怒りがこみ上げた。タイマンなら負けないのに。涙が滲んだ。後ろで動きを封じられ、反撃できない。それでも、やってやる。怒りと悔しさが体を動かした。私は前で勢いをつけ、その反動を利用して、片足を思い切り後ろに振り上げた。「痛っ!」後ろの人間が呻いた。上手くいった。うまい具合に、足が相手の股間に入った。相手は怯んだ。私は手をほどいた。自由になった手で、羽交い絞めにした人間の頭をしこたま殴った。満月がその人の顔をうっすらと照らした。竜光皇子──。直感で分かった。王宮に来て、四人の皇子の顔は知っていた。獅雷皇子が次期皇帝の最有力候補であり、残りの三人が後塵を拝しているのを知っていた。なぜ竜光皇子が私にひどい仕打ちをするのか。そのときは全く見当がつかなかった。月光に照らされた竜光皇子の顔は醜く歪んだ。細い目が見開かれた。目つきはおぞましかった。よほど私に恨みを持っていたのだろう。皇子は股間を押さえ、悶絶していた。驚いて攻撃の手が止まった女官は、紐を捨てて私を殴りつけた。私も殴った。女同士の意地のぶつかり合いだ。お互いに数発殴り合った。しつこい女官に対し、私は相手の髪の毛を掴んで思い切り引っ張った。女官は頭髪を押さえ、悲痛な声を出した。「やめて、やめて」うろたえる女官。髪を引っ張る私。女官の訴えにかまわず、髪を掴んで引きずり回した。とどめとばかり、狙いをつけて女官の腹にパンチを見舞った。憎しみのこもったパンチは確実に女官を痛めた。三発目のパンチが女官の急所に
賀の王宮で女官として働く日々は忙しかった。仕事はしんどかったが順調だった。求められてやる仕事にやりがいを感じた。李皇貴妃の身の回りの世話をするだけでよかった。たまに女官同士で協力して何かを準備したり、手伝ったりするときもあった。それでも、李妃の世話を優先した。働き始めてしばらくたつと、女官同士の関係が気になった、横同士のつながりで仲の良い女官は多い。それでも、皇帝に付いていた女官はお高くとまっていた。「ヒナ。そこ、どきなさいよ。皇帝が入浴されるのよ」「はい。そうします」私は答え、皇帝と皇帝付きの女官のために、李皇貴妃の入浴後の片づけを急いで終わらせた。皇帝は偉い。しかるに皇帝付きの女官も偉い、とは限らない。身分は同じ女官だ。女官が女官を顎で使うのには抵抗がある。心中で不満を吐き出し、わだかまりが渦を巻く。と、女官に怒られた。「そこ。タオル、落ちてるわ。さっさと拾いなさいよ。皇帝がいらっしゃるのよ。みっともない」「はい、すみません」分かっている。タオルを拾いながら、女官を呪った。そのタオルは私たちのではない。皇帝付きの女官が、隙を見てそっと床に落としたのだ。ここで逆らうと、あとあと面倒だ。そんな風に判断した。その嫌がらせを甘んじて受け入れた。そうしたトラブルはしだいに目につくようになり、私の心を蝕んだ。仲のいい別の女官に打ち明けた。その女官は私を慰めてくれた。ジンという名の女官である。ジンはため息交じりに言った。「私にも似たような悪さをしてくるのよね。頭にきちゃう」その言葉を聞き、少し心が和らいだ。仲間の存在だけでホッとする。私は少し考え、言った。「でも、私、思うの。その女官が悪いわけじゃないんだ、と。たまたま皇帝付きになったから、自然と威張るようになったけど、本当はそうやって孤立し、寂しいんじゃないかってね」「ヒナ。あなた、優しい人ね」ジンは私の手を軽く握った。その後、ジンとはよく会った。会って、互いの悩みや夢などを語り合った。また、私たちより身分の劣る一般女官との軋轢も生じた。一般女官は王宮全体に関係する仕事をこなし、縁の下の力持ちである。洗濯や調理。清掃と裁縫。それぞれが得意な専門分野を受け持ち、スキルがある。それでも扱いは低い。そのせいだろうか。一般女官はときに、私たち上の女官に
ある日、豪商の主人の部屋に呼ばれた。膝をついて伏せ、仕事のミスで怒られるのかと肝を冷やした。「面を上げろ。ヒナ」「はい」私は主人の命令に従った。主人はいつものように落ち着いた表情だった。「ヒナを呼んだのは他でもない。器量はよいし、丈夫でよく働く。ワシはお前を王宮に『献上』しようと思うとる」「ありがとうございます」「王宮で生活することになるが、何か訊いておきたいことなどあるか」「王宮では何をすれば」「お前は女官になる。身の回りの世話じゃ」「分かりました」「では荷物をまとめるがいい。王宮に行きなさい」「はい」「しっかり勤めるのじゃぞ」「もちろんです」こうして私の王宮行きは決定した。このまま豪商の屋敷にいて働き続けるものと思い込んでいた。ずいぶんあっさり、出世の幸運が訪れたものだ。生来の容姿端麗ぶりでよかったと胸を撫で下ろした。王宮に行ける。舞い上がった。王宮で女官として働く、と周囲に漏らした。「いいわね。羨ましいわ。頑張ってね」「たまには町に戻って来てよね。王宮の暮らしぶりを手紙に書いて寄越してほしいわ」「ヒナなら行けると思ってた。しっかり働いて王族に尽くしなさいよ」みんなは口々に温かい言葉をかけてくれた。豪商は地方で権力を握るだけあって、王宮との結びつきが強い。私のように賀の王宮に「献上品」として推挙される者は、けっして珍しくなかった。前日までに荷物をまとめ、当日に歩いて王宮に向かった。豪商の侍女として奉公し、王宮の女官に出世できたのはうれしかったし、誇らしかった。当日は朝からよく晴れ、心地よい空気を吸いながら気持ちよく町を後にした。川にかかる橋に差しかかった。橋を渡るとき、ふと恐ろしい出来事がフラッシュバックした。私の前世で、この場所で斬られたようなイメージが浮かんだ。頭を振り、現実を見据えた。自分に言い聞かせた。「だいじょうぶよ、ヒナ。私は生まれ変わったの。心配しなくていい」橋を渡ろうとして、王宮から来たと思しき兵士数人とすれ違った。橋を渡り終え、しばらく歩いて王宮に着いた。立派な門と石の壁で囲まれている。「ここが王宮か。初めて見るわ。聞きしに勝る見事さね」門番に来た旨を告げた。自分の名前と豪商に推挙された事情などだ。門番はそれを聞き、「入れ」と告げ、門を開けてくれた。中に入った。広い
「ヒナ。裁縫が終わったら、食事作りの班に加わって」「はい。承知しました」私は奥女中の頭に命ぜられ、居住まいを正した。しばらくして、裁縫仕事が片付いてから、厨房に向かった。厨房にはすでに数人の侍女がいた。赤い紐でたすき掛けし、一生懸命働いていた。「ヒナ、遅いよ。まだ切ってない野菜がザルに三つある。とにかく、それを大急ぎで切ってちょうだい」「はい。そのようにします」「グズグズするんじゃないよ」私より古株の侍女は野太い声で仕事を割り振った。厳しい目つきで。小さい頃の遊びで培った手先の器用さは、大人になるときに役立った。私は自分の住む地方の豪商の屋敷に住み込みで働いていた。奉公に出され、侍女として屋敷で働いた。日々、商人の主人の身の回りの世話や家事などをこなした。同時に、礼儀作法も叩き込まれた。仕事はキツかった。慣れると要領を覚えた。他の侍女たちと会話を交わしながら、簡単な作業は慎重に、難しい作業は他の人の協力を仰いで、ミスしないように丁寧に進めた。「洗い終えました。そこの竈を使います」「口を動かす暇があれば、さっさと手を動かす」古株の先輩の指示は厳しい。「はい」額に汗を浮かべ、切った野菜を流水で洗い、竈の鍋に放り込んだ。水を入れ、ぐつぐつと煮込み、調味料を足して味付けした。「できたかい?」「ええ。味もいいと思います」「どれ。あんたの舌は信用しないよ。私が味見する。どきな」古株は肘で私の体をどんと押した。竈に立ち、鍋から菜っ葉を摘まみ上げ、一口食べた。「よし。じゃ、火から下ろして。次は芋の皮むきよ」「はい」大皿にこんもり積み上げられた茶色の芋があった。フー、とため息をついた。短い包丁で芋の皮をむいた。いっぺんで切れる葉物野菜と違い、芋の皮むきは一度にできない。この地味な工程はいちばん骨が折れる。下っ端の侍女にその役目が回って来るのは仕方ない。「早くやりなよ」古株の声が背中越しに刺さる。厨房で働く侍女たちの間に緊張の空気が張りつめる。作業を見守り、矢継ぎ早に指示を飛ばす古株の存在が炊事担当の侍女に重くのしかかかる。予想以上に芋の皮むきに手間取った。すると、他の侍女が横から私の腕にぶつかった。「あんた、遅いよ。アタイが代わる。床を掃除しな」「は、はい」別の先輩侍女に作業の中断と別作業を言い
鳥が額にぶつかって、気を失った私──まったく、そんな偶然が起きるものなのか?いたって平凡で、それまでは変わったことなど何も起きなかった私。正月に縁起がいいモノと言えば、一富士、二鷹、三なすび。あの鳥は鷹。そうではなく、もっと小さかった。小さいけれど、鋭い加速だった。私を獲物と勘違いしたみたいに、まっしぐらに飛んできた。うん。ぶつかる前のことをちゃんと覚えている。私は、何もかもを失ったわけではない。記憶がしっかりしてる。ちゃんと命もある。体も五体満足で、手足も動くし、顔も首も、上下、左右に動く。恐る恐る、手を額に持って行く。ちゃんと、額はあった。ちゃんとあるし、穴
悪い夫にはどこかで罰が下る。そう思う私は愚夫の妻。どこにでもいそうなありふれた女だ。そして、夫も平凡を絵に描いたような、普通の会社員である。夫の性格は悪い。「このクズ野郎!」私は夫に怒りをぶつけた。「なんだと。だれが稼いで飯が食えてると思ってる?」夫は居直った。「はあ? 何様のつもりなの? つまんねぇ昭和の台詞ね」「つまらなくていい。こっちには仕事があるんだ。おまえを養う義務もな」「思い上がっちゃって。そんなんで、よく浮気したわね」「浮気はしてないよ」夫は平然と否定し、首を振った。「嘘つけ! 私には分かるわ。シャツにいつもと違う香りがしたのよ」「だから言ってるだろ? 帰
「皇帝陛下、皇帝陛下。いずこに?」私は廊下を歩き、皇帝を捜していた。「皇帝陛下。梅皇貴妃が隼の餌を持ってきましたよ」しーんとしている。廊下をすたすたと歩く音と私の呼び声。それだけが響く。中国の王宮は静寂を好むのか。騒がしさとは無縁のようだ。「だれかおらぬか? 皇貴妃じゃ。梅妃が皇帝を捜しておる」中国の王宮で暮らす私の身分は皇貴妃。現世の主婦から貴族へと華麗に転身、異世界転移して第二夫人の体になった。姿は現生の私とほぼ変わらない。現世に夫を残して未練はないが、皇帝の愛がほしい。夫似の召使にそそのかされた。皇帝の寵愛を得たいなら、皇帝が愛玩する隼の喜ぶニワトリを園庭に放ちな
中国の王宮で暮らし、しばらくたった。 梅皇貴妃と呼ばれる私は、第二夫人として、宮中でそれらしく振る舞った。 その身分を受け入れ、貴婦人らしく振る舞いさえすれば、何不自由のない豪奢な生活を送れた。 現世ではただの主婦だったから、気持ちのいいことこの上ない。 本来はその世界の住人でなく、中国だの、宮中だの、何も知らない。 知らなくても、ここの人は皇貴妃だと言い、すり替わったことを疑わない。 元のままだと信じる人がいるなら、演じるだけだ。 お陰で中国の王宮生活にも慣れ、かなりいい気になっていた。 私は貴婦人である。皇貴妃という身分は、皇帝の愛を受け入れる二番目の夫人らし