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第5話 宮廷料理

last update 公開日: 2026-06-11 12:00:46

どういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。

しかも、都合のよいことに、皇貴妃という身分でいられる。とても嬉しい。

中国の王宮の生活にもかなり慣れてきた。

私は貴婦人である。相手として対象になる男性がいるなら、それは皇帝だろう。

皇帝とは寝所で二人きりの時間を過ごした。

とても感慨深い、特別な時間だった。

皇后とは風呂でご一緒した。

さすがに皇后だけあって気品にあふれ、息を呑むほどに美しかった。私もそうありたいものだと思った。

何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。どんなささいなことでもしてくれる人たちだ。彼らを使うことに抵抗がなくなった。それだけ、信頼を置いていた。

王宮には複数の女官と召使がいた。

とくに夫似の召使が私の身の回りの世話をかいがいしくしてくれた。

髪の毛を櫛で丁寧にいてくれた。手の爪や足の爪をつんでくれた。着物を選んでくれた。喉が渇くと、お茶を持って来てくれた。ベッドメイクをしてくれた。湯あみのときに、桶や甕に湯や水を張ってくれた。暑いときはおおきな団扇であおいでくれた。寒くなれば、きっとその真逆のことをしてくれるに違いない。書を書くときは、墨と筆を用意し、終わったらきれいに洗ってくれた。

つまり、私はとくに何もしなくてよいのだ。

はじめこそ、夫似の召使は私のために献身的に働いた。

自分で何もしなくても彼が率先し、代わりにやってくれた。きわめて楽ちんだった。

小石を敷き詰めた庭に出た。

園庭は美しく掃き清められ、枝ぶりがきれいに整えられ、見事だった。

池にはおおきな錦鯉が泳ぎ、亀もいた。

広い池にはサギが羽を休めていた。

西の方から太陽が差し、池に光が反射する。

サギの広げた羽に注ぐ陽光が、白い羽を明るく際立たせる。

せっかく中国王朝に来たのだから、皇帝にお目にかかりたい。

どんな人なのだろうか。

あれこれと想像した。

何もすることのない一日は、時間が長い。

現世で家事に追われ、時間がとれれば携帯を触っていた頃とは真逆の日常だ。無の世界。

皇帝の顔を見られたのは、昼過ぎだった。

「梅后貴妃。皇帝がお呼びになっております」

夫似の召使が床に片膝をつき、私を呼びに来た。

「わかった。参ろうか」

召使の案内で、広い屋敷を歩いた。

きらびやかな柱と、ところどころ中国風の絵が描かれた壁の部屋に来た。

私と召使は中に入った。

そこは、皇帝の寝所だった。天蓋付きのベッドが置かれている。その部屋は明らかに、私の部屋よりもグレードが上だった。

「皇帝陛下。梅后貴妃を連れて参りました」

「うむ、ご苦労。下がってよい」

白いカーテンの向こうに人影がいた。皇帝である。

「では、ごゆっくり」

召使は恭しく礼をし、部屋から出て行った。

「梅皇貴妃よ。こちらへ参れ」

「はい」

少し顎を引き、ベッドのそばまで来た。

「ここにかけよ」

答える代わりに、顎を引いた。皇帝のベッドに腰かけ、顔を見た。

比較的若くて整ったお顔の主君。それが皇帝陛下の第一印象だ。

皇帝は私の腕を引いた。

私は腰を上げ、ベッドの中に入った。以前から続けていたように、何のためらいも恥じらいもなく、皇帝と仲睦まじいときを過ごした。

私のパートナーは、やはり皇帝だった。皇貴妃と呼ばれる身分だから、当然と言ってしまえば当然である。

女として愛され、嬉しかった。

これこそが皇帝の寵愛なんだわ。感慨もひとしおだった。

王宮に暮らす女に生まれたのなら、やはり皇帝に愛されてこそ価値がある。

それが本当の貴婦人だ。

けだるい午後のひとときは、短い時間に細胞一つひとつを目覚めさせ、輝かせた。

久しぶりの快楽に心はときめき、体中の血管は軽快なテンポを刻んで勢いよく流れた。

熱い抱擁と濃密な大人の思い出を、けっして忘れないでおこうと思った。

皇帝の部屋を出て、召使を伴い、自室に戻った。

ベッドに腰かけた。

両手を頬にあてる。何もかもが夢見心地だ。

その日、再び、皇帝にお目にかかれたのは夕刻だった。

夕方に召使が来て、食堂に案内された。

やっと、おいしい食事にありつけた。

イスの背中に白い布がかけてある。

座って、その布を膝に置いた。

やがて、長いテーブルの前に数人が座り、食事が運ばれて来た。

皇帝は上座に座っていた。

エビチリは残念ながら並ばなかった。

代わりに、各席にフカヒレのスープと野菜炒め、辛そうな麺が置かれた。

テーブルの真ん中には、台の上に盛られた饅頭まんじゅう、焼いた肉、蒸した豚肉。

他には赤や黄色、オレンジ色の果物であった。黄色は明らかにバナナだが、赤い果物は不明だった。橙色の果物は、みかんぽいものと、マンゴーのようなものに見えた。

「この焼いた肉はなんぞや」

私はだれに訊ねるでもなく、訊ねた。

「梅皇貴妃。それは鴨。鴨肉を焼いたものだ」

皇帝が笑って言った。

「さようですか」

場が静かなので、喋るのを慎んだ。

お腹は空いていた。ここに来て、まだ満足な食事をとっていない。ごくりと唾をのみ、どれから食べようかとワクワクした。

皇帝が手を合わせ、みなは食事を始めた。

空腹がひどくて、真っ先に中央の饅頭に手が伸びた。まずはこれを食べて空腹を満たしてから、次の食べ物にとりかかろう。そんな風に決めた。

白虎王子も饅頭に手が伸び、私と手がぶつかったのは愉快だった。

腹を満たして気付いた。扉が半分開いている。

そこから、琵琶と二胡、笛、しょうの音が適度な音量で聞こえてくる。

静かで、それでいてゆったりした雅楽。まさに心地よい音色で、食事のおいしさを引き立てる。

現世で食べたら、けっこうなお値段だろうな、と思いつつ、おいしい食べ物を咀嚼するのに夢中になった。

できる限り、皇貴妃としての気品と身だしなみに気を配ったうえで、ゆっくり、おいしい食事を味わうようにして食べた。

しかし、たまたま手元が狂った。箸で摘まんだ野菜炒めの汁が、着物にかかった。

「あっ、やっちゃった」

白い布で着物を拭いた。

すぐに気づいたのだろう。

壁際に立って控えていた召使がサササっと駆け寄った。

「拭かせていただきます」

男の召使は中腰になり、濡らしたお絞りで着物を濡らした汁を丁寧に拭き取った。

「く、口も」

私は炒め物を食べて汚れた唇をつんと突き出した。

それを見て、召使は別の色のお絞りで、唇を丁寧にぬぐった。

「子どもみたいだ」

白虎王子がこちらを見て、笑って指さした。

「まあ、よいではないか。白虎」

皇帝が息子である白虎王子をたしなめた。

私は、皇帝の目を盗み、白虎にあかんべぇをした。

白虎王子は気付いて、こちらを睨みつけた。

普通、あかんべぇなど、子どもがすることなのに、立場が反対である。

お腹も膨れ、心が満たされた。

気が緩み、瞼が重くなる。

「梅皇貴妃。スープは飲まぬのか」

皇后が私の方を手で示す。

そう言えば、スープの存在を忘れていた。

口が渇いたら、茶色の湯飲み茶碗に入った烏龍茶で湿らせていた。湯飲みの烏龍茶が減ると、召使がすぐにつぎ足してくれるのだ。

「忘れておりました。フカヒレのスープですね」

「さようじゃ。うまくて高級なスープ。とてもまろやかじゃぞ」

皇后はフカヒレのスープのうまさを確約した。

召使に目で合図し、フカヒレのスープを白い椀に盛ってもらった。

白い椀を手前に移動し、スープを見た。

かきたま風の黄色い卵のスープの中に、フカヒレが隠れているのだろう。

さじを持ち、ゆっくりとスープをすくって口に含んだ。

うーん、卵の優しい味わいとスープのうまみが絶妙だ。とても味が深い。深いという言葉では足りないくらい、奥深い。フカヒレも柔らかく煮込まれ、かきたま汁とほどよい味になっている。卵とフカヒレのいい部分が互いを引き立て、いい具合に調和している。

そして、皇后のおっしゃるように、スープ自体はあっさりしていて、まろやかだ。

このスープに中国ウン千年の滋味が詰め込まれている。

気付いたら、匙は何度も容器と口を往復していた。

手が疲れるくらいに匙で何度もすくい、舌がフカヒレスープと同質のものに変わりそうだった。

とても、おいしかった。

冷めてもおいしい。絶品の料理とはそういうものなのだろう。

しばらくして、自分がスープを食べ終わるのを、みんなが待っているのに気付いた。

この晩餐の席についているすべての人の目が、この私のスープを食べる姿に注がれていた。

ようするに、私が食べ終わるのを、じっと待っていたらしい。それも礼儀なのだろうとは後になって思い当たった。

スープを食べ終わったのを見て、貴妃というべきだろうか、第三夫人らしき貴婦人が、そっと手を挙げた。それが合図で、召使が、おのおのの目の前に大きな白い鉢と陶器でできた大きめの白い匙を運んできた。

それはデザートの杏仁豆腐であった。

テーブルの真ん中には、果物が置いてある。

それに手を伸ばす人も、召使にとらせる人も、だれもいない。

おそらく、真ん中の果物は食べられるけれど、飾りとして手をつけないのだろう。果物の汁で手が汚れるのを嫌うのかもしれない。でも、召使が果物の皮をむいてくれさえすればいいものを、と思った。

みんなは、スープの後で出る杏仁豆腐のデザートをじっと待っていたのだ。

この辺の食事マナーは、日本の懐石料理の最後と似ていた。

それまでは、テーブルに載った料理の中から、好きなものを好きな順番でいただける。

最後だけはみんなが揃ってデザートを食べる。

それがこの国、中国王宮の習わし──。

そう肝に銘じ、杏仁豆腐を陶器の匙でそっとすくった。

杏仁豆腐は細長いひし形で、ぷるるんとした弾力があった。

掬うと、白い匙のくぼみに三つ、四つだけ収まった。匙の大きさと、切り分けた杏仁豆腐の形や大きさ。それらをちゃんと計算して作られているのだ。

それくらいの心配りをし、贅を尽くしてこその王宮料理だった。

杏仁豆腐はみずみずしく、ぷるぷる揺れながらも、唇を乗り越えて口の中に入った。口で噛めばすーっととろけるように口内でほぐれる。牛乳の乳臭さを、香料で消してある。

とても上品で、味わい深い。いくども、いくども、舌と歯でよく味わった。

柔らかい杏仁豆腐がホロホロとほどよく崩れ、薄めの甘みが口に広がるのが心地よい。

みんなを見た。

みんなも杏仁豆腐がおいしいと見え、実に幸せそうな顔をしている。

杏仁豆腐を食べ終えた。

白い布で口を軽く拭いた。

食事は終わった。

いつしか、音楽は演奏が止まっていた。

皇帝はみんなを見回した。

ゆっくり頷き、手を別の手のひじに当てがい、中国式の挨拶をして頭を下げた。

果物が気になった私は、食堂を出る前に、夫似の召使を呼び寄せて訊ねた。

「テーブルにあった果物は、だれも手をつけなかったわね」

「さようでございます」

「私、あの橙色の果物、食べたいんだけれど」

「わかりました。私めが皮をむいてお部屋に持って参りますゆえ」

「そうか。そうしてくれると、うれしいのう」

やはり、訊いてみてよかった。

夕刻の空はまだ明るい。

私は腹を見たし、満足だった。

ゆっくり自分の部屋に戻った。

しばらくして、夫似の召使が、切り分けられたみかんとマンゴーを持って来た。それらは、金色の小ぶりの容器に盛りつけられ、金色の匙が添えられていた。

私は、みかんとマンゴーを交互に食べた。

やがて、その果肉よりも橙色の夕陽が空を染め、夜を迎えた。

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