ログインどういうわけだか、中国の王宮のような場所で暮らすようになった私。
しかも、都合のよいことに、皇貴妃という身分でいられる。とても嬉しい。
中国の王宮の生活にもかなり慣れてきた。
私は貴婦人である。相手として対象になる男性がいるなら、それは皇帝だろう。
皇帝とは寝所で二人きりの時間を過ごした。
とても感慨深い、特別な時間だった。
皇后とは風呂でご一緒した。
さすがに皇后だけあって気品にあふれ、息を呑むほどに美しかった。私もそうありたいものだと思った。
何かしたければ、お付きの召使か女官を呼べばいい。どんなささいなことでもしてくれる人たちだ。彼らを使うことに抵抗がなくなった。それだけ、信頼を置いていた。
王宮には複数の女官と召使がいた。
とくに夫似の召使が私の身の回りの世話をかいがいしくしてくれた。
髪の毛を櫛で丁寧に
つまり、私はとくに何もしなくてよいのだ。
はじめこそ、夫似の召使は私のために献身的に働いた。
自分で何もしなくても彼が率先し、代わりにやってくれた。きわめて楽ちんだった。
小石を敷き詰めた庭に出た。
園庭は美しく掃き清められ、枝ぶりがきれいに整えられ、見事だった。
池にはおおきな錦鯉が泳ぎ、亀もいた。
広い池にはサギが羽を休めていた。
西の方から太陽が差し、池に光が反射する。
サギの広げた羽に注ぐ陽光が、白い羽を明るく際立たせる。
せっかく中国王朝に来たのだから、皇帝にお目にかかりたい。
どんな人なのだろうか。
あれこれと想像した。
何もすることのない一日は、時間が長い。
現世で家事に追われ、時間がとれれば携帯を触っていた頃とは真逆の日常だ。無の世界。
皇帝の顔を見られたのは、昼過ぎだった。
「梅后貴妃。皇帝がお呼びになっております」
夫似の召使が床に片膝をつき、私を呼びに来た。
「わかった。参ろうか」
召使の案内で、広い屋敷を歩いた。
きらびやかな柱と、ところどころ中国風の絵が描かれた壁の部屋に来た。
私と召使は中に入った。
そこは、皇帝の寝所だった。天蓋付きのベッドが置かれている。その部屋は明らかに、私の部屋よりもグレードが上だった。
「皇帝陛下。梅后貴妃を連れて参りました」
「うむ、ご苦労。下がってよい」
白いカーテンの向こうに人影がいた。皇帝である。
「では、ごゆっくり」
召使は恭しく礼をし、部屋から出て行った。
「梅皇貴妃よ。こちらへ参れ」
「はい」
少し顎を引き、ベッドのそばまで来た。
「ここにかけよ」
答える代わりに、顎を引いた。皇帝のベッドに腰かけ、顔を見た。
比較的若くて整ったお顔の主君。それが皇帝陛下の第一印象だ。
皇帝は私の腕を引いた。
私は腰を上げ、ベッドの中に入った。以前から続けていたように、何のためらいも恥じらいもなく、皇帝と仲睦まじいときを過ごした。
私のパートナーは、やはり皇帝だった。皇貴妃と呼ばれる身分だから、当然と言ってしまえば当然である。
女として愛され、嬉しかった。
これこそが皇帝の寵愛なんだわ。感慨もひとしおだった。
王宮に暮らす女に生まれたのなら、やはり皇帝に愛されてこそ価値がある。
それが本当の貴婦人だ。
けだるい午後のひとときは、短い時間に細胞一つひとつを目覚めさせ、輝かせた。
久しぶりの快楽に心はときめき、体中の血管は軽快なテンポを刻んで勢いよく流れた。
熱い抱擁と濃密な大人の思い出を、けっして忘れないでおこうと思った。
皇帝の部屋を出て、召使を伴い、自室に戻った。
ベッドに腰かけた。
両手を頬にあてる。何もかもが夢見心地だ。
その日、再び、皇帝にお目にかかれたのは夕刻だった。
夕方に召使が来て、食堂に案内された。
やっと、おいしい食事にありつけた。
イスの背中に白い布がかけてある。
座って、その布を膝に置いた。
やがて、長いテーブルの前に数人が座り、食事が運ばれて来た。
皇帝は上座に座っていた。
エビチリは残念ながら並ばなかった。
代わりに、各席にフカヒレのスープと野菜炒め、辛そうな麺が置かれた。
テーブルの真ん中には、台の上に盛られた
他には赤や黄色、オレンジ色の果物であった。黄色は明らかにバナナだが、赤い果物は不明だった。橙色の果物は、みかんぽいものと、マンゴーのようなものに見えた。
「この焼いた肉はなんぞや」
私はだれに訊ねるでもなく、訊ねた。
「梅皇貴妃。それは鴨。鴨肉を焼いたものだ」
皇帝が笑って言った。
「さようですか」
場が静かなので、喋るのを慎んだ。
お腹は空いていた。ここに来て、まだ満足な食事をとっていない。ごくりと唾をのみ、どれから食べようかとワクワクした。
皇帝が手を合わせ、みなは食事を始めた。
空腹がひどくて、真っ先に中央の饅頭に手が伸びた。まずはこれを食べて空腹を満たしてから、次の食べ物にとりかかろう。そんな風に決めた。
白虎王子も饅頭に手が伸び、私と手がぶつかったのは愉快だった。
腹を満たして気付いた。扉が半分開いている。
そこから、琵琶と二胡、笛、
静かで、それでいてゆったりした雅楽。まさに心地よい音色で、食事のおいしさを引き立てる。
現世で食べたら、けっこうなお値段だろうな、と思いつつ、おいしい食べ物を咀嚼するのに夢中になった。
できる限り、皇貴妃としての気品と身だしなみに気を配ったうえで、ゆっくり、おいしい食事を味わうようにして食べた。
しかし、たまたま手元が狂った。箸で摘まんだ野菜炒めの汁が、着物にかかった。
「あっ、やっちゃった」
白い布で着物を拭いた。
すぐに気づいたのだろう。
壁際に立って控えていた召使がサササっと駆け寄った。
「拭かせていただきます」
男の召使は中腰になり、濡らしたお絞りで着物を濡らした汁を丁寧に拭き取った。
「く、口も」
私は炒め物を食べて汚れた唇をつんと突き出した。
それを見て、召使は別の色のお絞りで、唇を丁寧にぬぐった。
「子どもみたいだ」
白虎王子がこちらを見て、笑って指さした。
「まあ、よいではないか。白虎」
皇帝が息子である白虎王子をたしなめた。
私は、皇帝の目を盗み、白虎にあかんべぇをした。
白虎王子は気付いて、こちらを睨みつけた。
普通、あかんべぇなど、子どもがすることなのに、立場が反対である。
お腹も膨れ、心が満たされた。
気が緩み、瞼が重くなる。
「梅皇貴妃。スープは飲まぬのか」
皇后が私の方を手で示す。
そう言えば、スープの存在を忘れていた。
口が渇いたら、茶色の湯飲み茶碗に入った烏龍茶で湿らせていた。湯飲みの烏龍茶が減ると、召使がすぐにつぎ足してくれるのだ。
「忘れておりました。フカヒレのスープですね」
「さようじゃ。うまくて高級なスープ。とてもまろやかじゃぞ」
皇后はフカヒレのスープのうまさを確約した。
召使に目で合図し、フカヒレのスープを白い椀に盛ってもらった。
白い椀を手前に移動し、スープを見た。
かきたま風の黄色い卵のスープの中に、フカヒレが隠れているのだろう。
うーん、卵の優しい味わいとスープのうまみが絶妙だ。とても味が深い。深いという言葉では足りないくらい、奥深い。フカヒレも柔らかく煮込まれ、かきたま汁とほどよい味になっている。卵とフカヒレのいい部分が互いを引き立て、いい具合に調和している。
そして、皇后のおっしゃるように、スープ自体はあっさりしていて、まろやかだ。
このスープに中国ウン千年の滋味が詰め込まれている。
気付いたら、匙は何度も容器と口を往復していた。
手が疲れるくらいに匙で何度もすくい、舌がフカヒレスープと同質のものに変わりそうだった。
とても、おいしかった。
冷めてもおいしい。絶品の料理とはそういうものなのだろう。
しばらくして、自分がスープを食べ終わるのを、みんなが待っているのに気付いた。
この晩餐の席についているすべての人の目が、この私のスープを食べる姿に注がれていた。
ようするに、私が食べ終わるのを、じっと待っていたらしい。それも礼儀なのだろうとは後になって思い当たった。
スープを食べ終わったのを見て、貴妃というべきだろうか、第三夫人らしき貴婦人が、そっと手を挙げた。それが合図で、召使が、おのおのの目の前に大きな白い鉢と陶器でできた大きめの白い匙を運んできた。
それはデザートの杏仁豆腐であった。
テーブルの真ん中には、果物が置いてある。
それに手を伸ばす人も、召使にとらせる人も、だれもいない。
おそらく、真ん中の果物は食べられるけれど、飾りとして手をつけないのだろう。果物の汁で手が汚れるのを嫌うのかもしれない。でも、召使が果物の皮をむいてくれさえすればいいものを、と思った。
みんなは、スープの後で出る杏仁豆腐のデザートをじっと待っていたのだ。
この辺の食事マナーは、日本の懐石料理の最後と似ていた。
それまでは、テーブルに載った料理の中から、好きなものを好きな順番でいただける。
最後だけはみんなが揃ってデザートを食べる。
それがこの国、中国王宮の習わし──。
そう肝に銘じ、杏仁豆腐を陶器の匙でそっと
杏仁豆腐は細長いひし形で、ぷるるんとした弾力があった。
掬うと、白い匙のくぼみに三つ、四つだけ収まった。匙の大きさと、切り分けた杏仁豆腐の形や大きさ。それらをちゃんと計算して作られているのだ。
それくらいの心配りをし、贅を尽くしてこその王宮料理だった。
杏仁豆腐はみずみずしく、ぷるぷる揺れながらも、唇を乗り越えて口の中に入った。口で噛めばすーっととろけるように口内でほぐれる。牛乳の乳臭さを、香料で消してある。
とても上品で、味わい深い。いくども、いくども、舌と歯でよく味わった。
柔らかい杏仁豆腐がホロホロとほどよく崩れ、薄めの甘みが口に広がるのが心地よい。
みんなを見た。
みんなも杏仁豆腐がおいしいと見え、実に幸せそうな顔をしている。
杏仁豆腐を食べ終えた。
白い布で口を軽く拭いた。
食事は終わった。
いつしか、音楽は演奏が止まっていた。
皇帝はみんなを見回した。
ゆっくり頷き、手を別の手の
果物が気になった私は、食堂を出る前に、夫似の召使を呼び寄せて訊ねた。
「テーブルにあった果物は、だれも手をつけなかったわね」
「さようでございます」
「私、あの橙色の果物、食べたいんだけれど」
「わかりました。私めが皮をむいてお部屋に持って参りますゆえ」
「そうか。そうしてくれると、うれしいのう」
やはり、訊いてみてよかった。
夕刻の空はまだ明るい。
私は腹を見たし、満足だった。
ゆっくり自分の部屋に戻った。
しばらくして、夫似の召使が、切り分けられたみかんとマンゴーを持って来た。それらは、金色の小ぶりの容器に盛りつけられ、金色の匙が添えられていた。
私は、みかんとマンゴーを交互に食べた。
やがて、その果肉よりも橙色の夕陽が空を染め、夜を迎えた。
「ヒナ。裁縫が終わったら、食事作りの班に加わって」「はい。承知しました」私は奥女中の頭に命ぜられ、居住まいを正した。しばらくして、裁縫仕事が片付いてから、厨房に向かった。厨房にはすでに数人の侍女がいた。赤い紐でたすき掛けし、一生懸命働いていた。「ヒナ、遅いよ。まだ切ってない野菜がザルに三つある。とにかく、それを大急ぎで切ってちょうだい」「はい。そのようにします」「グズグズするんじゃないよ」私より古株の侍女は野太い声で仕事を割り振った。厳しい目つきで。小さい頃の遊びで培った手先の器用さは、大人になるときに役立った。私は自分の住む地方の豪商の屋敷に住み込みで働いていた。奉公に出され、侍女として屋敷で働いた。日々、商人の主人の身の回りの世話や家事などをこなした。同時に、礼儀作法も叩き込まれた。仕事はキツかった。慣れると要領を覚えた。他の侍女たちと会話を交わしながら、簡単な作業は慎重に、難しい作業は他の人の協力を仰いで、ミスしないように丁寧に進めた。「洗い終えました。そこの竈を使います」「口を動かす暇があれば、さっさと手を動かす」古株の先輩の指示は厳しい。「はい」額に汗を浮かべ、切った野菜を流水で洗い、竈の鍋に放り込んだ。水を入れ、ぐつぐつと煮込み、調味料を足して味付けした。「できたかい?」「ええ。味もいいと思います」「どれ。あんたの舌は信用しないよ。私が味見する。どきな」古株は肘で私の体をどんと押した。竈に立ち、鍋から菜っ葉を摘まみ上げ、一口食べた。「よし。じゃ、火から下ろして。次は芋の皮むきよ」「はい」大皿にこんもり積み上げられた茶色の芋があった。フー、とため息をついた。短い包丁で芋の皮をむいた。いっぺんで切れる葉物野菜と違い、芋の皮むきは一度にできない。この地味な工程はいちばん骨が折れる。下っ端の侍女にその役目が回って来るのは仕方ない。「早くやりなよ」古株の声が背中越しに刺さる。厨房で働く侍女たちの間に緊張の空気が張りつめる。作業を見守り、矢継ぎ早に指示を飛ばす古株の存在が炊事担当の侍女に重くのしかかかる。予想以上に芋の皮むきに手間取った。すると、他の侍女が横から私の腕にぶつかった。「あんた、遅いよ。アタイが代わる。床を掃除しな」「は、はい」別の先輩侍女に作業の中断と別作業を言
私は平凡な女児として町で暮らし、すくすくと育った。まだ自分がどういうタイプの女の子なのか分からないけれど、お花を眺めるのと、猫と遊ぶのが好きだった。少しして、弟が生まれた。弟のぽよぽよした頬を触るのも気持ちよくて好き。母に言いつけられ、食事の手伝いと後片付けはよくやるようになった。家の門の前で猫を撫でていると、近所の男の子が話しかけてきた。「やあ、ヒナ。おはよう」「おはよう」「ヒナは猫が好きか」「うん。好きだよ」「俺も好きだ。猫、触らせてくれ」「いいよ」私は猫の体を抱き上げ、男の子に手渡した。男の子は背中や顎の下を優しげに撫でた。猫は目を細め、うれしそうに鳴いた。「なあ、ヒナ」「なあに?」「ヒナは大人になったら、どうするんだ?」「さぁね。そんなのわかんないわ」「結婚するんだろ?」「たぶんね」「ヒナに結婚相手がいなければ、俺がもらってやるぞ」「そうなの?ありがとう」たわいもないやり取りは、その場限りの口約束だった。子ども同士の約束など、あてにできない。私はたぶん、親が決めた相手と見合いして結婚するだろうと思っていた。やがて、近所の男の子たちに混じって遊ぶようになり、丘に出かけた。丘に着いた。みんなのマネをし、草を摘んだ。草の茎を互いに引っかけ、引っ張り合って勝負した。「草あわせ」という遊びだ。切れた方が負け。単純で、負けてもすぐに次の勝負に挑める。だいたいは勝ったり負けたりの繰り返しになる。中には猛者もいた。同じ草で五連勝くらいする男の子は、胸をそらして腰に手を当てた。「どうだ? 俺、強いだろ?」その男の子には数えるほどしか勝てなかった。彼と仲良くなり、彼のグループに入れてもらえた。町の広場で、そのグループでゲームに興じた。現代のゴルフやゲートボールに似たゲームである。一種のスポーツとも言えよう。地面に穴を掘り、そこに各自が持った棒でボールを打ち、転がして穴に入れる。強い人がいろいろと手取り足取り教えてくれた。私も狭い穴に転がして入れる要領を掴んだ。ゴルフと違うのはボールが一つであり、各プレーヤーがそれを共有する点だ。たくさんボールが地面にあると、どれが誰のボールなのかこんがらがる。一つのボールを、決めた順に打つ。ゆえに、最初の人が一発で入れるときもあれば、穴の周囲をボールが行った
伸びた意識はバネのように縮んだ。光っている穴が急にワッと大きくなった。私の意識は穴の外へと吸い込まれた。吸い込まれたと同時に、見知らぬ女の子宮にいた女児の命と同化した。新しい命の心の中に意識が宿り、光の外へと出て行くのが直感的に分かった。それは別人に転生した瞬間だった。新しい人格。新しい人生。それが光の向こうで始まるんだ──。もはや梅本香里ではなく、梅皇貴妃でもない。王宮で繰り広げた世継ぎバトルの記憶も、さまざまな男たちに抱かれた愛の記憶もない。普通の赤ん坊として産声を上げ、暗い中から聖なる光に導かれるようにして、外へ出された。オギャー、オギャーと泣きながら、どこかうれしさもあった。新しい人生が祝福の声とともに始まった。赤ん坊として生きるというのは、前世の記憶を頭の抽斗から引き出せないのに等しい。そう言えば、どこかで似たようなことを知っているという既視感も、年を経ないと芽生えない。女児として誕生してからしばらくの間、見知らぬ両親の笑顔を見つめ、つぶらな瞳で笑うか、泣くしかできなかった。どうかするとすぐに腹が空いて、よく泣いた。おしっこしたくなったり、漏らしたりしても、当然のように泣いた。母親の乳をねだるときも、同様に泣いた。泣くたびに母はその腕であやした。私の機嫌は直った。「ヒナ。お前はかわいいね。将来が楽しみだよ。きっとすごい美人になるでしょうね」母は目を細め、私の器量の良さをほめた。美人とか、器量の良さという言葉を認識できなかったが、私を抱きながら目を細めて喜ぶ母たちの姿は、心で受け取れなくとも幼い目に焼き付いた。年を取って、母に「お前は小さいころから可愛かったのよ」と言われるたびに、その当時のこそばゆい感覚が少しだけじわりと蘇った。私は町民の家で育った。赤い着物を着せられ、よちよち歩けるようになった。言葉はまだ少ししか喋れない。たどたどしい言葉を操るだけで、「ヒナ、可愛いね」だの、「よく言えました。賢いね」だのと周囲の大人たちはほめそやした。私が近所のガキ大将をピンチから救ったのは、その頃だった。ちょうど、空が雲に覆われた秋の午後だった。午後と言うのは、お昼ご飯を食べてから、夕飯を食べるまでの間という時間の感覚で分かっていた。近所にいたガキ大将は、いつも子分の男の子三、四人を従えていた。
私は死んだと確信した。死ぬ寸前に士良がチョーとダブり、「私を平気で裏切ったあなたには、最高の罰で償ってもらいますから」と恨むような目つきで言う姿が、おぼろげに頭に浮かんだ。そのイメージが死ぬ直前の私をいたぶった。これだったのか。気づいても、もう遅かった。郭貴妃が袖で口元を隠して笑っている。この人には負けなくない。悔しい。劉妃が蔑むように目を細めて私を見つめ、こちらを指さしている。この女にはいつか復讐してやる。私を罵倒し、おかげで流産した。あの流産さえなければ、今頃私が王宮の権力を牛耳られたのに。腹立たしい。皇后の妹が腰に手を当てて顎を突き出している。その女と激しく言い争った覚えばないが、三大勢力の一角である。あとから勢力に加わり、迷惑だった。本当に図々しい。それぞれの女が代わる代わる闇の中に登場し、私を嘲笑っている。真ん中に郭貴妃がおり、右隣りの劉妃が郭貴妃の肩に手を回し、左の皇后の妹は郭貴妃の腰に手を回している。三大悪女! この女たちさえいなければ、私が命を落とすことはなかったはず。みんな消えろ! 消えてなくなれ!急に風が吹いた。三大悪女は風にかき消されるようにして消えた。彼女らの立っていた場所に龍と虎と一本角の麒麟が出現した。どれも強そうな野獣である。三頭の野獣のうち、虎が牙をむいて襲って来た。その牙で私の体を引きちぎった。休む間もなく、龍の胴体が体に巻き付き、グイグイと締め上げた。挙げ句の果てには麒麟の強靭な後ろ足で鳩尾あたりを思い切り蹴られた。三頭の攻撃で、私の体はバラバラになった。肉の塊が四方に飛び散った。それが幻か悪夢なのかの区別がつかず、ただ苦しいという感覚だけが強く意識に残った。気づくと、三大悪女や三頭の野獣はどこにもいなかった。意識は宿るべき肉体を失い、虚空をあてもなく浮遊した。浮遊する意識は、グニャグニャしながら形を歪めた。妙な感覚を保ち、意識は時空を彷徨った。暗黒の世界はなにもないのか。なににもぶつからず、移動を続けた。暗闇の上から泣き声が響いた。聞き覚えのある声──。それは、あの獅雷皇子の泣き声だった。泣き声はしだいに近づき、声が高くなった。そして、一瞬で通り過ぎ、意識の塊から遠ざかるにつれ、声は少し低く聞こえた。音が聞こえる
「それでさ。いま、王宮はたいへんなのよね」すっかりおばさんモードだ。おばさん同士の井戸端会議のノリで、私は相手を前に喋った。「ふむ。王宮がそんな風に混乱しているのですか。私はまるで知りませんでしたよ」相手は目を丸くした。「内輪の話だから、外へ漏れないのかもしれないけどさ。ちょっとしたスキャンダルよ。いま、こうしてあなたに喋るように、いずれ世間にも知れ渡るわ。王宮の世継ぎ争いの醜さが」目の前にいる崙伖は、お茶の器を握ったまま、ようやくそれに口をつけた。ゆっくりと茶を啜った。ここは、以前利用した茶楼である文人崙伖とこの場所で落ち合った。今夜の夕食は抜いてもらった。一人お忍びで、町まで足を伸ばした。「たしかに皇帝の位を狙おうとする人物が複数出てくるのは分かるし、興味深いですね。私の書く白話小説の題材に採り入れてみましょうかね」「そうよ。それ、いいわ。絶対に面白くて売れるわよ。何せ、現実ですら、ときに汚い、ときにあざとい言動が雅な王宮でまかり通るのよ。派閥が三つもあって、互いが牽制し合う。その力学で王宮の未来に黄色のランプが灯ったとかさ」「はて?黄色のランプとは?」崙伖は首を傾げた。「あ……、ああ。言い間違えた。黄色のランプじゃなくて、何て言うの? 危険な状況を味方に知らせる灯りのようなものって」「それを言うなら、天灯でしょうな。夜間に味方へ危機を伝える灯籠です。空へ飛ばす灯籠なので天灯と呼ぶのです」崙伖は文人らしく意味を解説してくれた。「さすが博識ね。その天灯よ。王宮の未来に暗雲が垂れ込め、危機を告げる天灯が夜空に放たれた。そんな場面って、小説に描いたら盛り上がるんじゃない?」「はい。それはもう書きがいがありますよ。次の次くらいに、それを使わせてもらいますよ」崙伖は懐からくしゃくしゃになった雑紙を出し、それを丁寧にテーブルの上に広げた。携帯している袋から出した筆で、言葉をサササッとメモした。こんなに興奮して喋る美女を前にして、文人というのは如才なく会話をかわし、隙あらば自らの仕事にいかそうとする。ある意味で尊敬に値する。「私もね。こう見えて、皇帝のお子を産んだのよ。獅雷皇子と名づけたわ。獅雷皇子はね。竜光皇子や双渦皇子よりも優秀なの。キリリとした眉に可愛らしい口元で、こう言うの。『この名前はなに?』とか、『どうして空は青いの?』
「梅皇貴妃。私です」夜に男の人が訪ねて来た。それだけでちょっとうれしい。自室にいた私は招き入れた。「どうぞ。入って」声でわかった。恭郡王である。「お久しぶりです。お元気でしたか」恭郡王が訊ねる。「私は変わらず元気よ。恭郡王も元気そうね」「はい。どうにかして梅妃とお会いしたかったのですが、諸事情が許さず、こうして今夜になりました」「別にいいのよ。気にしてないわ」「それにつけても、王宮内は三つのグループに分かれ、世継ぎの座を争っておりますな」「ええ。私もそのグループの一員よ」「かねてから、私が何か梅妃のお力になれたらと思っておりました。直接お会いしたかったのです」恭郡王は私に会いに来た理由を明かした。「うれしいわ。恭郡王にそこまで思ってもらえるのなら。そこにいて話を聞かれるとマズいわ。もっと近くにいらして」恭郡王を私の座る近くに呼び寄せた。彼の上品で涼し気な顔が近づく気配がした。自室の灯りは消していた。暗がりで男がそばに来て、つい手が彼の顔に伸びた。私は彼の頬に手を当て、優しく撫でた。自分の顔をさらに近づけ、目を閉じた。二人は接吻した。甘美な口づけがあの晩を思い起こさせた。冷めていた愛が再燃するのか、と半分期待した。唇を離すのが惜しかった。恭郡王の方が口づけを終わらせた。互いに沈黙し、私は長い髪を触った。所在なく着物を手で撫で、相手の出方を窺った。暗い中、二人の男女はじっとしていた。恭郡王はとくに何もしてこない。ただ、暗い部屋でかすかに彼の息が音を立てた。どうしてよいかわからず、何か言おうとして言いあぐねた。意を決し、口を開いた。「恭郡王にどこまで話したかしら? 私の身の上を」「そうですね……。私自身の話ばかりしましたね。梅妃の過去は宮廷内の噂程度にしか存じませぬ」そうだった。競渡で舞い上がった私は、彼を質問攻めにし、イケメンをぐいぐいと自分の領域に引きずり込んだのだった。「じゃあ、最初から話すわ」「わかりました。話せる範囲でどうぞ。私はただ聞いております」「私は王宮の第二夫人として、皇帝の寵愛を受けていたわ。それで幸せだった。その状態がずっと続く。幸せな日々を送れる。そんな風に思ったのが間違いよね。悪い召使は私に目を付けた。私を唆し、私は窃盗罪で地下牢に幽閉された」「ああ、れいのあの事件ですね」
「皇帝陛下、皇帝陛下。いずこに?」私は廊下を歩き、皇帝を捜していた。「皇帝陛下。梅皇貴妃が隼の餌を持ってきましたよ」しーんとしている。廊下をすたすたと歩く音と私の呼び声。それだけが響く。中国の王宮は静寂を好むのか。騒がしさとは無縁のようだ。「だれかおらぬか? 皇貴妃じゃ。梅妃が皇帝を捜しておる」中国の王宮で暮らす私の身分は皇貴妃。現世の主婦から貴族へと華麗に転身、異世界転移して第二夫人の体になった。姿は現生の私とほぼ変わらない。現世に夫を残して未練はないが、皇帝の愛がほしい。夫似の召使にそそのかされた。皇帝の寵愛を得たいなら、皇帝が愛玩する隼の喜ぶニワトリを園庭に放ちな
中国の王宮で暮らし、しばらくたった。 梅皇貴妃と呼ばれる私は、第二夫人として、宮中でそれらしく振る舞った。 その身分を受け入れ、貴婦人らしく振る舞いさえすれば、何不自由のない豪奢な生活を送れた。 現世ではただの主婦だったから、気持ちのいいことこの上ない。 本来はその世界の住人でなく、中国だの、宮中だの、何も知らない。 知らなくても、ここの人は皇貴妃だと言い、すり替わったことを疑わない。 元のままだと信じる人がいるなら、演じるだけだ。 お陰で中国の王宮生活にも慣れ、かなりいい気になっていた。 私は貴婦人である。皇貴妃という身分は、皇帝の愛を受け入れる二番目の夫人らし
鳥が額にぶつかって、気を失った私──まったく、そんな偶然が起きるものなのか?いたって平凡で、それまでは変わったことなど何も起きなかった私。正月に縁起がいいモノと言えば、一富士、二鷹、三なすび。あの鳥は鷹。そうではなく、もっと小さかった。小さいけれど、鋭い加速だった。私を獲物と勘違いしたみたいに、まっしぐらに飛んできた。うん。ぶつかる前のことをちゃんと覚えている。私は、何もかもを失ったわけではない。記憶がしっかりしてる。ちゃんと命もある。体も五体満足で、手足も動くし、顔も首も、上下、左右に動く。恐る恐る、手を額に持って行く。ちゃんと、額はあった。ちゃんとあるし、穴
悪い夫にはどこかで罰が下る。そう思う私は愚夫の妻。どこにでもいそうなありふれた女だ。そして、夫も平凡を絵に描いたような、普通の会社員である。夫の性格は悪い。「このクズ野郎!」私は夫に怒りをぶつけた。「なんだと。だれが稼いで飯が食えてると思ってる?」夫は居直った。「はあ? 何様のつもりなの? つまんねぇ昭和の台詞ね」「つまらなくていい。こっちには仕事があるんだ。おまえを養う義務もな」「思い上がっちゃって。そんなんで、よく浮気したわね」「浮気はしてないよ」夫は平然と否定し、首を振った。「嘘つけ! 私には分かるわ。シャツにいつもと違う香りがしたのよ」「だから言ってるだろ? 帰